隠キャはカラオケくんなよ

 課題が多くて憂鬱!友達が少なくて憂鬱ストレス多くて憂鬱!頭もお金も努力も忍耐も足りない毎日です。試験期間なので試験勉強するのが普通なのですが、クズなので無理です。進学希望先は?理物?計数?理情?物工?

 f:id:Dreaming-mange:20200711004648j:plain

 まあ点取れなかったら、文学部にでも出しますかね、あるいは地獄専攻。ブラックジョーク(つまらない)。

 この世で一番不思議なものって何ですか?量子力学?オカルト現象?統失の発言?なぜ都会のバカどもが街へ繰り出している中で大学生だけが不利益を被っているのか?なぜ私は、Twitterをしていないはずの同級生からも「Twitterの人」と認識されていたのか?

 いいえ、違います。カラオケの料金体系です。

 

「カラオケってみんなで来ると楽しいよね〜」

 そうかそうか、それは大いに結構だ。しかし同意しかねるものもいる。カラオケは部屋数ではなく、人数で値段が変わります。つまり、人数によらず自分の料金は不変です。複数人(n人とする)でカラオケにきた場合、カラオケ機利用時間は一人の時に比べて単純に言って1/n倍になります。ということは値段/時間はn倍になるということです。この成長率はやばいです。娯楽界の藤井聡太。まあだからと言って複数人で行くのは損とは言えません、一人じゃ会話はできないから(真理)。

 簡単に考察してみましょう。例えば利用時間3時間の場合。一人で来た時の楽しさをAとします。これは純粋に歌を歌う楽しさと言えます。(声帯の減衰や孤独感は無視する)。そんなら、n人で来たら歌を歌う楽しみはA/nになります。その代わり、人の歌を聞いたりおしゃべりをする楽しさが追加されるので、これらを纏めてf(n)とでもおきましょう。function(n)だなんて上手いこと言いますね。

 私の目的は総合楽しさF ≡A/n+f(n)の最大化。

 とね、なんかそれっぽく言いましたが、f(n)は個人の価値観と連れの面子に依存しますから、あまり無意味です。ただ、言いたいことは、隠キャはf(n)の増分が少ない!増加するとも限らない!まあぶっちゃけて、n=2,3あたりならf(n)が聞いてくるかもしれませんが、それ以降はA/nの変化の方が大きいので、「割に合わないな」なんて思っちゃうわけです。ちなみに私にとってはf(n)=log(2)nくらいですかね。n=1のときも適応できてエライ。

 さらに「ふーん、じゃあf(n)が大きくなるメンツと行けばいいのね」というのも違うのです!f(n)は人の歌を聞いたりおしゃべりをする楽しさと言いました。しかし、『人の歌を聞く楽しさ』って大したことないですよね。みんなスマホ見てるし。つまりf(n)の主要項はおしゃべりです。

 じゃあカラオケじゃなくていいじゃん!!

というわけです。安い焼肉でも行けや。うーーん、結局カラオケに行く時点で重視すべきは楽しさAなんだから、それが減衰し過ぎないnの範囲が良いんですね。しかもnが大きくなれば確率的に、スナックとかの余分なマイナス項がかかる可能性があります。

 ではなぜ陽キャはカラオケに大人数で行くのか。それは彼らにとってそれがデフォルトだからです。カラオケはそういうところだからです。実は隠キャも複数人で行きます。そういうものだからです。人類はみんな(多分考えないんだろうけど)値段が割に合ってると思っているのです。こんな文章を描いたのは私が隠キャだからじゃありません。

 クズだから!!!!!

f:id:Dreaming-mange:20200711004629j:plain

 これを読んでしまった友人がいるなら、言い訳のしようもありません。誘ってもらえて嬉しいです。ただし私には感性が足りない。いい人が多いとクズは辛い。友よ、私を責めないでください。神よ、私を陥れないでください。包み隠さず全ては真実です。

 二人で90分、これがベスト。

 

 

 

 

 

人は見えてるものしかわからない

 肉体が重い、肉体が重い。魂が何処にあるのかってふと考えたりしますよね。ベッドに寝転んでると、足はとても遠く感じられなんだか上半身にある気がします。やはり目鼻口脳が頭に集中してるので意識が上半身にむきがちなのは自然に思えませんか?そんなこと言ってもまったくわかりませんがね。自分の顔の見方なんかありますか。

 1ツイートに入りきらない程度に時候の挨拶(時候の挨拶だと?)を済ませたところで本題に入りましょうか。コンビニに行った時、店の外の壁際に自転車を止めるんですが、そこにメモが置いてありました。日付も封筒もなかったのですが、どうやら私に発見されましたので供養してあげます。誰が書いたかは知りません(ええ?)。

 

『これは大変だ。私はヒッジョーに焦っている。誰がこれを読むかも知りませんので何を話すか。私は火曜の夜になると毎週非処女を殺しています。別に儀式とかではないですが火曜の夜は体が熱いのです🥵。どうこう。あんまり気持ちの良いルーチンではないにしろ、誰にも迷惑はかけんと言うことでまあ我ながら気に留めていなかったのが、聞くところでは”殺人罪”とかいうのに問われるらしい。いや、殺人罪くらいは存じてますが、非処女が「人」に当たるというのはどうにか知りませんでした。そういうことで私は連続殺人鬼です。困った。いつ警察がくるか、誰でもない自分にしれた途端恐ろしくなりました。もう直ぐ朝がきます。今まで飾りに過ぎなかったインターホンが今か今かと初仕事を待ち構えているようです。しかし罪悪の念は生まれません。うわは、は、は。

 私がおかしいのか。国がおかしいのか。そんな二元論で済ませられましょうか。そもそも人間なんてものが間違いなんだ、全く......。』

 

 イカれてますね。処女厨なんてなるもんじゃないですよ。いやー、やはり自覚のない悪意が一番恐ろしいですね。「悪意」の部分は屡々「無知」に置き換えられます。

 それはさておき本題。タイトル通りです。

「ちんこには多くの呼び方があるのにまんこは一通りなのなんでだ?!」というジェンダー問題に深く関わる問題(嘘)にメスを入れたいと思います。

俺「まんこなんてまんこか陰核の二通りだぞ。ヴェネチアにさえそれに加えてヴェニスと水の都って三つほど認識できるのがあるよ」

友「ヴァギナもある」

俺「そうか、それでやっとヴェネツィアと同じか」

こんな調子です。なぜまんこは呼称の種類に於いてちんこの後塵を拝するのか?

「ちんこは男性にあるため(主に幼少期には)ネタにしやすいのに、まんこは女性器だから、女の子がそんなことをネタにされたら泣いてしまう」のでしょうか?そんなアホな。私は断じてフェミ二ズムの姿勢を崩しません、そんなことはありえないのです。ましてや(自主規制)!!

 そこで、男女の(社会的なものも生来的なものも含む)性質は使えない。となると難しいですか?いいえ、難しくありません。まんことちんこの違いを考えると明々白々です。人は情報のほとんどを視覚に頼ります。つまり、ちんこは見えてまんこは見えないのです。人間全体を見渡すと、明らかにちんこはおかしい!ぶら下がっている!睾丸はその温度を低く保つために内蔵としては特殊な場所にあります。変です!別に人間に限った話ではないんですがね、仮に自己複製で繁殖する生き物その他地球外生命体に、股間だけを空欄にした人間の図を与えて、そこを埋めてもらうと、絶対ちんこは描きませんよ!!不自然だもん。

 いらないところになんかぶら下がってる、生殖機能を知らない幼児に面白くないわけがないな。対してまんこはごく自然です。非特徴的なものに名前はいらないわけです。「男にはちんこがあって女にはない」。これは今考えると非対称でへんですが、そんな思慮深い小学生はいやですね。それを、小学校中学年でセックスの存在を知る衝撃とは、記憶にないですがきついでしょうね。私は今でも信じたくありません。あ?連続殺人の機運か?

 そういうわけで人間の認識能力を鑑みるとちんこは誰もが慣れ親しみ(?)まんこはセンシティブに思われるのも納得ですね!

 しかし、それは感情的議論であり、地上波に置いてちんこは伏字とはいえ放送されるのに、まんこと言えばカットが必然なのはジェンダー後進国という他ない。悲しいことです。全く、感情論に支配されがちなくせに平等だなんだと、二律背反をどちらも求めるから、人間は愚かなんだ。

 確認ですが、性別には三種ある。男、処女、非処女。平等は不可能。しかし私は殺人はしません、一般的な法くらいわかりますよ(人の定義も一応)。この文章は全部で1919文字で書かれています。意味はないです。

 

車輪の下

まず、田舎の村で一人の天才が生まれるということについては共感できないが、有り得ることなんだろう。しかしそういう田舎に住みながらも名門校を受験するに十分な学習ができるというのは、珍しいことでは無いのだろうかと思った。宗教についてあまり詳しくないのもあってか、牧師が信心深いかどうかとか新訳旧約聖書のことはあまり分からんかった。
前半で印象だったのは「高等中学に行くかい?」のとこです、ハンスが高等中学の存在を知っていたのかどうかはわかりませんが、高等中学を視野に入れている都会の少年に対して、ハンスは『そんな話は全然出なかった』ことから、情報格差というか育つ環境による前提の違いというものを感じました。この経験は結構わかりやすいです、私も高校受験の際には私立高校なんて眼中にもなく、あるのは知ってるけど自分には関係ない、というものです。こういう経験は入学以前よりも、入学後に感じやすいものだと思いますが、意外とそういう描写がなかったのがちょっと引っかかります。
ハンスがハイルナーと特段仲良くなったのが気になります。キスというのもあるんでしょうが、他の生徒が模範的優等生でありハイルナーと一線を画していたのに比べて、ハンスは人一倍あらゆる物事に寛容だったからではないかと思います。そのために、(学校に従順でない)悪友と学業という両立が難しいものの板挟みで、幼い少年ということもあって対処出来なかったんだろうと。やはりこの小説では「少年だから車輪に潰された」というのがキーですね。ハイルナーがルチウスについて問題を起こした時、彼に手を差し伸べるのはあまり賢い選択ではないしハンスもそれをしなかったが、後に罪悪感を覚えたり、ハイルナーはそれに失望したこと、また仲直りさえも彼らが少年だから、結構単純な感情に左右される。仮に月並みな小説の高校生とかなら、ハンスは罪悪感を言い訳で押し潰すことができるだろうし、ハイルナーはハンスの裏切りに落胆しながらもハンスを責めるのは難しいでしょう。まあこれについては単にハイルナーがそういう人間性と言うだけなのかも知らんが。ハイルナーは別にハンスが居なくてもやっていけたんだろうな、という感じはします。ついには何も告げずに脱走するわけですし。
ハンスの退学後、タカ小路が出てきた時に「一方は綺麗な方に続く道で、一方は汚いタカ小路」みたいな書き方があったと思います(うろ覚え)。ハンスは一旦は綺麗な方に進みましたよね、神学校です。しかしそこは彼には合いませんでした。だからタカ小路に進み直すわけです。
あとは、ハンスが死んだのは自殺なのか事故なのか。これは微妙ですよね。ハンスが自殺を考慮してることは書いてありますが、一方ハンスは酔ってました。死因の推定が何個か書いてありますが、最後に「美しい水を見て引き寄せられ、その上に屈んだのかもしれない。そして、平和と深い休息とに満ちた夜と月の青白い光が彼の方をじっとみたので、彼は疲労と不安のために死の影に引き込まれたのかもしれない」とあります。この表現こそが微妙なのですが、私としては自殺か事故かとか言った議論が不可能ではないかと思います。この表現だけでなく物語全体を踏まえても、ハンスの死は自然との調和であるようです。これは感想交換で得た考えなのですが、川は時間やそのほか様々な流れを表します、ここでハンスが自然に誘われ川を流れるというのは、神学校や周りからのプレッシャーといった人間ならではの不自然的な枷からの解放と捉えられると思います。ハンスは仕事に前向きに見えないこともありませんでしたが、エリート街道と鍛冶屋、どっちが良いか一概には言えません。まあいずれにしろ結論は分かりません。
全体を通してさり気ない表現ながらも美しく、重要で細やかな仕草も描写しているところはすごいなって思いました。読みやすいんですが、読み込もうと思えばどこまでも読み込める深さがありそうです。
長くなりました、いきなりですが終わり。読書会の感想交換のために書いたんですが、読書会は面白いものでした。私以外全員文系で(それは関係ないかも知らんけど)、私がほぼ言語による(単なる風景画よりも美しいと思える)情景の描写の美しさのみを目的にしているのに対して、意外と書き手の視点や登場人物の行為の意味を深読みしてるのが印象的でした。体型を理解してその文章の作用とかを考えるのはあまり得意でないし、すごいなぁってかんじだ。

若きσ(゚∀゚オレの悩み[書評]

存在しない会話 駄菓子屋編

客「ジャッキーカルパスあるだけください」
店「ジャッキーカルパス10,000本で105,000円になります」(あるあるポイント、消費税五パーセントになりがち)
客「はい、500円」
店「全然足りませんよ、そんなのに欲しいんですか。これじゃジャンキーカルパスですね笑」
客「支払いは鉛玉だ」(発砲音)


どうも!『恋愛と性行為の繋がりが理解出来ず世間の感覚に置いていかれる会』会長の怠惰ちゃんです!
今回はなれないですが書評を書こうと思いました。実は5月終わりくらいに『若きウェルテルの悩み』の読了して、忘れきらない内に書こうと思ったんですが、課題が重すぎて暇がありませんでした。私は新潮文庫(高橋義孝訳)を読みました、私は翻訳家の文体は全く気にしませんが、岩波文庫と二分されるようです(他の出版社もある)。飽き性なので描ききれるか分かりませんが、やってきます(ちなみに以前別のとこで書いた『車輪の下』は中途半端に終わりました、いつか編集します)。

まずはあらすじと概要。あらすじはwikiから引用。
〈あらすじ〉
作品は2部で構成されており、主に主人公ウェルテルが友人ヴィルヘルムに宛てた数十通の書簡によって構成されている(シャルロッテ宛のものも数通含まれる)。

第1部冒頭では、ウェルテルが新たにやってきた土地での生活ぶりや交友関係が報告される。辺りの風物の素晴らしさや、身分の低い人々の素朴さに引かれたこと、とある公爵とその老法官と親しくなったこと、その老法官の妻が最近死んで、長女がまだ幼い兄弟たちの母親代わりをしていること、ワールハイムという土地にある料亭が気に入って、そこでしばしばホメーロスを耽読していることなど。

ある日ウェルテルは郊外で開かれた舞踏会に知り合いと連れ立って出かけることになり、その際に老法官の娘シャルロッテと初めて対面する。ウェルテルは彼女が婚約者のいる身であることを知りつつ、その美しさと豊かな感性に惹かれ我を忘れたようになる。この日からウェルテルはシャルロッテのもとにたびたび訪れるようになり、彼女の幼い弟や妹たちになつかれ、シャルロッテからもまた憎からず思われる。しかし幸福な日々は長く続かず、彼女の婚約者アルベルトが到着すると苦悩に苛まれるようになり、やがて耐え切れなくなってこの土地を去ってしまう。

第2部では新たな土地に移って以降の出来事が描かれる。新たな土地でウェルテルは求めて官職に就き、公務に没頭しようとする。しかし同僚たちの卑俗さや形式主義に我慢がならなくなり、伯爵家に招かれた際に周囲から侮辱を受けたことをきっかけに退官してしまう。その後頼った知り合いの公爵のもとでも気分の落ち着きが得られず、数か月各地をさまよった後やがてシャルロッテのいるもとの土地に戻ってくる。しかしすでに結婚していたシャルロッテとアルベルトは、ウェルテルの期待に反して彼に対し冷たく振舞う。

この第2部の半ばから「編集者」による解説が挿入され、ウェルテルの書簡と平行してシャルロッテや周辺人物の状況を説明しながら物語を進めていく。ウェルテルがシャルロッテへの思いに煩悶している中、ある日ウェルテルの旧知の作男が、自分の主人である未亡人への思いから殺人を犯してしまう。作男に自分の状況を重ね合わせたウェルテルは作男を弁護しようとするが、アルベルトと、シャルロッテの父親である老法官に跳ねつけられてしまう。この出来事が引き金となり、ウェルテルは自殺を決意する。彼は使いをやってアルベルトの持つピストルを借りようとする。アルベルトの傍らでその使いの用事を聞いたシャルロッテは事情を察し衝撃を受けるが、夫の前ではどうすることもできず、黙ってピストルを使いに渡してしまう。ウェルテルはそのピストルがシャルロッテの触れたものであることに対する感謝を遺書に記し、深夜12時の鐘とともに筆を置き、自殺を決行する。最後に編集者によって、心痛のためにシャルロッテが出席できなかったウェルテルの葬儀の模様が報告される。
〈概要〉
若きウェルテルの悩みは著者ゲーテ自身の体験を基にしています。彼の恋人は作中と同じ名前のシャルロッテ。彼の経験は大体作品に現れてるぽい。ゲーテも失恋で自殺を考えたらしいです。大きく異なるところは二つ。
作中でウェルテルに影響する作男は殺人を犯したのに対し、現実で恐らくその位置にあたるゲーテの友人は自殺している。
ウェルテルは自殺するがゲーテは自殺していない。
まあそもそも比較するもんでは無いですかね、ゲーテの友人がピストル自殺したことから作品の着想を得たそうですから。
『ウェルテル』はその時代にしては斬新な作品だったらしく、世に与えた影響は多大です。精神のインフルエンザともいわれ、この作品の影響で自殺が流行したそうです(バカじゃないの)。有名人の死の後追いをウェルテル効果というそう。
ゲーテは失恋による悲しみをこの小説を書くことによって昇華させました。この話は小説など創作の力を説明する話にあげられますね。

〈感想など〉
私は書簡式の小説は、ゼロではないにしろあまり読んだことはありません。この小説はだいたい一年半の間のウェルテルからの手紙という形式です。第一の(1771/5/4)手紙はウェルテルが新しい土地にうつってきたところからですが、その中にレオレーノという女性の名前が出てきます。彼女がどうなったのかはわかりませんが、ウェルテル、レオレーノ、レオレーノの妹の三人は三角関係だったらしく、ここではウェルテルは後のシャルロッテ的立ち位置だと読み取れます。彼はこのことについて「奸計や悪意よりも、誤解や怠惰の方がよっぽどいざこざの基になる」と言っています。見落としやすいところですが共感できます。人間てのは面倒くさいですね。この時点ですでにウェルテルの哲学的思索は深いことがわかります。
ウェルテルはロッテに会う前に、彼女が婚約者を持っていることを言われながらも恋に落ちます、ウェルテル自身はそんなこと気にしないと言ってますが、実際不貞は働けないのに、無意味だなあと思います。
作品全体を通して僕が疑問に感じていたのはシャルロッテの立場です。彼女はウェルテルの彼女への愛を理解しながらも、一貫してウェルテルに対して友人という関係を崩そうとしませんでした。ウェルテルは彼女が振り向いてくれなくともとはいいますが、ウェルテルの愛には応えないのに自分の友人としてそばにいて欲しいなんて、恋愛感情を盾にとった虫のいい行為ですよね?片思いなんて非対称の極みですから、そんな中で二人(アルベルト含め三人)の関係性が不変でいられるはずがないんです。まあ、こういう端から見ればわかり切った愚かな行為に溺れるというのが恋愛の醍醐味ともいえそうです。こんな風に、ロッテは二人の男を手駒にするのですが、ウェルテルによるロッテへの言及からはそう言った「魔性の女」感は伝わってきません。むしろ清純な美しさを持つイメージです。最後にロッテはウェルテルに無理やりキスされ怒ります。その頃にはウェルテルは開き直っていたのですが、まあ自業自得でしょう。
えー書くこと忘れてきました。作品は宗教についても結構描かれています。恋愛に悩むウェルテルにとっての宗教の無力さ。加えてウェルテルが見聞きする実生活に困る人々へ宗教が与える影響も書いていました。個人的には宗教に批判的、というより「宗教は実際は助けにならない」って感じです。私の偏見もあるので、読んでみてください。
ロッテはウェルテルを友人として大切に扱っていました。しかしそうだと言っても、ウェルテルはロッテを愛していましたから、ロッテに婚約者があるのは我慢ならないでしょう。訳者の解説には「霊肉分離の愛に満足できず」とありましたが、私はそうは思いません。むしろ異性に対する(小説などで取り上げられるような)愛は複数人に対し注がれるものではないと考えます。相当気持ち悪い表現になりますがここにいる方は問題ないだろうということで言います。愛というものは相手の(どちらかというと精神的)清純を望む物であり、相手の自分に対する感情も自分ただ一人に注がれることを信じるはずのものです。細かいことは言いませんが、肉体的処女はその証明になり得ます。ロッテが処女なのかは微妙ですが(どうでも良い)、彼女のアルベルトとウェルテル二人への立場がどっちつかずだった帰結と言えます。
最後に無理矢理キスされるロッテですが、その前の詩の意味が私にはよく分かりませんでした。やっぱ読める人はこういう所も汲み取れるんだろうか、私には遠いです。あとウェルテルの自害、片目から撃ち込んだんだから即死だと思ったのに意外と長く死なないらしい描写がグロかったです。ウェルテルはみんなに看取られながら逝きました。実際アレで即死出来ないもんですかね?わかりませんが。
アルベルトはいいやつなので浮気は当然倫理に反しますし、浮気というのはロッテには似つかわしくないでしょう。何よりウェルテルは元から死に対してネガティブな印象を持っていませんでしたし(アルベルトとの会話でわかる)、普通に社会不適合者的側面があったので、恋愛がうまくいかない宗教も救ってくれない仕事もダメ、なんて状況で死に至るのはごく自然なんすね。恋愛表現については共感し難いところが多かったですが、ウェルテルの厭世的思想には共感できるところがありました。私が一番共感したのは
「少々ばかりの力と才能とを持った連中が、得意然と僕の面前でお喋りしているのに、僕は自分の力と自分の才能に絶望しているんだから、神様、あなたは私に一切を与えてくださったが、なぜあなたはその半分を差し控えておいて、その代わりに自信と自足をくださらなかったのでしょう(101P)」
神と現世への絶望が読み取れます。著者ゲーテは、まあ失恋があったとは言え?、順風満帆だったろうにこのような暗い感情を描けるとは恐るべし。他人の考えを推し量れない私は敬服もんです。

私はそもそも恋愛ってのが嫌いなんですよ。人や文学が素晴らしいって言うほど理解、愛の理解は共感といっていいでしょうが共感ができません。恋愛の影響によって生死に及ぶほど人生の色が変わるってのが理解し難い。異性関係のみで生きている人がいますが、宗教みたいなもんでしょうか、誰でももちやすいからそれしか持ってない人も見えるだけですね、特にSNSで。逆にそんなものさえ持ってないので私はコンプバリバリです。
今は「火花」と「花盛りの森・憂国」を並読してます。結構好き嫌い激しいので、話題作というっだけではしんどいって感じです。それではまた気力があれば。

アニメデレマス 感動シーン:受験編

卯月「頑張ったんです。私、勉強大好きだし、頑張ってたら、もっともっと勉強したら、、あの......

 でも、ちっともわからなくて......私のなかの得意な教科、なんだかわからなくて、このままだったらどうしよう。もし、このまま受験が来ちゃったら。怖いよ......もし、私だけ番号見つからなかったら、どうしよう。怖いよ......!!

 チューターさんは、私のいいところは現文だって。だけど......現代文なんて......国語なんて誰でもできるもん!!.............何にもない、私には、何にも............」

 

卯月、号泣。

未央「しまむー......」

 

凛「誰でもできるなんて言わないでよ。踏み出したんだよ?自分もかがやけるかもって。あの時の卯月の成績がキラキラで眩しかったから。あの模試があったから、私......。」

 

未央「しまむー、前にさ、私が逃げちゃった時(志望校を下げようとした)も、ずっと、待っててくれたじゃん?

 なんかね、安心してた。しまむーどんな時も笑って『がんばります!』って言ってくれるって。

 そんなわけないよね......ごめんね、気づけなくて」

 

卯月、泣きながら首を横に振る。

 

未央「私たちさ、もっかい受験生になろうよ!来年から!」

 

今日のオムニバス明日のオムニバス

持ち前のリーダーシップを発揮して給食のプリンを独占しようとする委員長
「みんな、待って!じゃんけんで決めよ。まずみんなグー出して、俺も出すから。そのあとそのあと俺だけパーに変えるって流れで行こうと思うから、協力頼むわ」

どうも!「死ぬこと以外かすり傷」つってるやつをシベリア送りにする会会長の怠惰ちゃんです。
あいも変わらず毎日クソつまんねえですね〜笑!超すさんでます。「しーね死ね死ねシーね死ね」って歌ってたら、ふと「誰に死んで欲しいんだ?」と自問してしまって、答えが見つからない今日この頃です。ここがマイ情景描写。死ね。

人が笑うのは下ネタと人を馬鹿にした時、つまり差別が一番面白いってのな。倫理観を持ってこの先を読まれると困る、捨ておけ。
特に、得ることがマジでないし、一貫性もないので、時間を一FFの超絶美少女現役JK声優のために捨てても構わないマゾヒストだけが先に進んでください。こう書くと、誰一人として読んでくれそうにありませんが、実際その通りです(ウケる)。

さてね、心の中が交通渋滞、最悪。何度も言ったか、泡のように浮かんで消えます。浮かぶ原理は不明、なけりゃ良かった。書きたいことを書くので皆さんは読みたいことを読んでください、流石にワガママ言いません。
ここで一句
泡沫の
いい感じのハゲ
コカ・コーラ
(うんち💩)

最悪なサンドウィッチマン
「世の中には興奮することいっぱいあるけど、やっぱり一番興奮するのは人に石投げる時だね」
「間違いないね(倫理的に間違っていることは理解している)」

あー疲れた。自転車こいで電車乗って電車降りてコーヒー買って人と話しただけなのに疲れた。これを生きるって言います。疲れた。
オモロ、大爆笑。

女の人が好きです、殴りやすい位置に顔があるから。
子供が好きです、蹴りやすい位置に顔があるから。
うっそー!好きじゃありません!!人に触れるのって気持ち悪いですよね!!別に好きでも嫌いでもない。向こうが俺を嫌うのは別に構わんです(当たり前だのクラッカー)。

「明日はきっといい日になる」なんていう曲があります。歌詞がクロワッサンの生地よりも薄っぺらい曲です。
一度くらいはお聴きになって?あら、ご存じないなんて、随分と俗世に疎いんですわね、おほほ。
あれはどういうスタンスの曲なんでしょうか。「今日はいいことなかったなあ、でも、明日こそは!」って気持ちで聞くのが正しいんですかね?そんなものfAKEじゃあないですか。明日に対して希望を持つって行為は、今日に満足してるやつだからできる行為なんすわ。クズな毎日送ってるクズの明日が輝かしいわけないだろ!空から美少女は降ってこない!!それが現実です、それだけが現実です。

ヤベー、書きたいこと書いて、俺は楽しいけど、それに留まってる〜。いいなあ、好きに書いたことが評価されて印税で生活できたらなあ。キャベンディッシュて知ってますか?物理学のいろんな法則を発見してたんですが、全部趣味だったんです。極度のコミュ障で学会とかには出れんかったと。いいですね〜、でも彼貴族なんですよ。なんでも金がいるんですわ。これは完全に偏見ですが、中世の基礎科学や文系学問の有名人て金持ちばっかりじゃあないんでしょうか。そういう分野は金になりにくいですから。何よりも生活なんですよ。マルクス共産主義を主張してましたが、生活はエンゲルスの補助に頼りっぱなしだというではないですか。いいなあ〜。

あーーーーーーーーだる、みんな死なないかな。今日は直近の課題も特になく、いい日でした、テストはあるけどね。明日は大変です。
全ての苦痛は生存から来るのです。スローガンとしてもわかりやすいですね。まあこれは冗談で言っているわけではないです。「なら(生存を)やめろ」と言わないでください。ここが難しいところで、生存の限りで1番の苦痛(恐怖)が、生存を止めることなんですよ。呪いですよ。瞬間最大風速がデカいんですね、デルタ関数的な。生存コンティニューなら、平均不幸値が高い定数関数みたいな。ジレンマですねー、わろた。
どちらも知らないんですけどこれから解放されるにはやっぱ愛か宗教なんですかね?
現実の人間(メス)と関係を持つのは嫌、恐ろしい、気持ち悪い、全て本音ですが。しかし、彼女が欲しいという一点に対してはマジな(なぜなら世界を幸福に染め上げてくれる対象を彼女と定義し、それは真の恋愛だとは信じている)ので、何かしらの方法で自分の記憶を全く改竄して概念彼女(二次元の嫁の上位互換)が作れたらどうか、なんて考えてみます。思考実験に過ぎません。或いは量子力学がごとく一世紀後には実験可能だったりして。

ということで、最近『若きウェルテルの悩み』を読んでいます、書評は拙いながらもいずれ書くと思う。愛がテーマなんで馬鹿馬鹿しいつって敬遠してましたが、手を出しましたよ。ファウストは読んだことありません、ゲーテってそんないいんすか?シラーなんて作品名すら知らーない。ただ、辛さのクッションを求めるなら、少なくとも恋愛よりかは文学の方が現実的かな。でわまた。

脳内ラベンダー畑

世の文章は恋愛賛美ばかりです、くだらない。恋愛で救われる人間よりも恋愛で死ぬ人間の方が多い世界の到来を願います。
とはいえ、異性とまともな交際さえもしたことない異常者の恋愛ネガキャン文章なんて誰が読んでも参ってしまいますよね。私?異常者呼ばわりは心外ですね。ということで、今回は私の甘酸っぱい恋愛の思ひ出を綴ることとします。






解散